7月11日


朝早く長老や子供を山に乗せ町内を走る。
この時は乗せる相手が相手なだけに一時停止して交代する。
地元の人達には「祝儀山」と呼ばれている。
AM4:00 各流れのT詰所Uに男達が集合する。 
AM5:00 山小屋出発。
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[real audio 28.8]
録音担当:武田公二
 午前3時半。今日は取材陣を2クルーに増やしてのぞむ。カメラマンに社長が加わり盤石の体制が整う。冷泉公園に着くと、あたりにはカメラ小僧やサークルの集団、プロのカメラマンが時を待つ。公園の薄汚れたベンチには酔っぱらい達がたむろする。 

 すぐ隣は九州一の歓楽街『中州』である。この時間だとTまだ宵の口だUとでも言いたげにネオンが我々をむかえうつ。誘いにはのらないよとばかりにどっかと腰を下ろし、機材のセッティングを始めた。学生らしきドランカーが奇声を発する中、細見クルーは東流れへ、村上クルーは櫛田付近へと向かった。 

 冷泉公園から櫛田神社へは道一本だ。ゆっくりと、今日のプランを頭に描きながら櫛田へと進む。スタート地点となる山止めのところで足が止まった。そこから櫛田神社の清道の入り口を見る。90度に右にターンしながら清道へ駆け上がっていくのだが、その光景が目に浮かぶようだ。 

 福岡市の総鎮守としては最古の歴史を持つと言われる櫛田神社。その清道目指して突進する山笠の流れの数は七。千代、恵比寿、土居、大黒、東、中洲、西。この七という数は、天正15年、太閤秀吉の時代に戦火で焦土と化した博多の町の再興をする際、持ち込んだ数字に由来するらしい。そのころに櫛田神社も復興したという。 

 山が通る時に山笠や舁き手に水をかけるT水当番Uがじっとこちらを睨んでいるような気がした。

 「俺達の聖域に気安く立つんじゃねえ!」と視線が語っている。そんな気がした・・。我々は顔を見合わせると少しだけ苦笑した、「たしかにな・・」。足早に櫛田の目と鼻の先にあるT西流れUの詰め所へ向かった。 

 明治、大正の時代を彷彿とさせる家並みの前に、T西流れUの詰め所はある。その詰め所の前には山小屋がある。その古びた情緒を楽しみながら時を待った。 

 午前4時。山の男達が明かりを掲げ、「おいさっ、おいさっ」という掛け声とともに集まり始める。T冷泉 Uの二文字が水法被の背中に刻まれている。T西流れUである。録音担当の武田は慌ててその集団に駆け寄り、できるだけ山の近くまで行き録音テープを回す。 

 テープを回しだしたその後も、続々と男達が集まって来る。「おいさっ、おいさっ」とかけ声をかけながら二、三十人の男達が駆け足でやって来る。そして、山の前に集まると、挨拶をしてT博多手一本 U。 マイクを通して男達の息づかいがきこえてくる。挨拶を交わす者、若者達に大声で指示をする者、はしゃぐ子供達、それを見守るTごりょんさんU。 

 しかし、この神聖な雰囲気は何なのか? 

 集まった男達はじっと一点を見据え、静かに時を待っている。町の各所には祭壇が設けられ、弔いに来る人がいる。隣で男達を見守っていたTごりょんさんUが教えてくれた。これからT追善Uと呼ばれる儀式が道々で行われ、その年に無くなった故人の家の前で『祝い目出度』を盛大に唄うのである。 

 なるほど、“朝山”とはそういうことなんだな・・少しわかった気がする。 

 山の男たちはこの日、自分の子供をT舁き山Uにのせ、一世一代の晴れ姿を見せるのだ。T舁き山Uにのった子供達にとっても晴れ舞台となり、この思い出は山の子供たちの記憶の中に刻み込まれるであろう。 

 それは、紛れもない父から子への伝承である。 
 
 

山に関わってきた男達を弔い懐かしむ“朝山”

子供達を山にのせ町内を縦横無尽に駆け回る“朝山”
もう一回読むくさ!表紙にもどるったい!次に行きやい!こげんと読まれんばい!