福岡県北九州市門司港
旅人 / 森淳一
「まもなく小倉、小倉です・・」

新幹線の無機質な車内アナウンスの声が、夢見心地の私の意識を車窓の風景へと向かわせる。北九州トンネルを抜けると左手に北九州工業地帯の赤茶色した光景が広がる。昭和の時代に隆盛を極めたであろう新日鉄の工場群が恨めしくも悲しげな黒煙を吹き出している気がした。

monju
小倉から30分ほどかけて今回のロケ地である門司へと移動する。私にとって、この会社に入社してから初めての音ロケだ。

「気合い入れて録ってこいよ!」、先輩達からのきつい餞別を胸に講師の加藤さんと共に門司港駅に降り立った。録音機材のストラップがズシっと肩に食い込む。プレッシャーからか自然と体全体に力が入ってしまう・・いかん!こんなことでは。

北九州市門司区。こじんまりとした街の風景は「門司港レトロ」構想の中にひっそりと息を潜めていた。

駅前、横断歩道
エンデとベックマンがもたらしたであろう、ネオ・ルネッサンス様式を踏襲した門司港駅の駅舎の佇まいに暫し身をゆだねる。

駅の正面に旧門司三井倶楽部、その斜め前には旧大阪商船のビル。それだけを見ればまさに大正ロマンである。駅から数十メートルも行けばそこは門司港。駅から降り立った旅人はこの門司港からの潮風を体全体に浴び、ある種の感慨を抱かせる。そう、ここに立っているだけでも、私の情緒はいやが上にも高揚してくるのだ。

まず基本的なセッティングを講師である加藤さんから教えてもらい、クレジットを入れて録音に入る。このあと加藤さんは実家の都合で退社してしまうわけだが、モノを創るこだわりにたけた人だけに職人としての人生をまっとうすることだろう・・たぶん。

港の方へ歩いていく。するとブルーウイングもじという跳ね橋。門司港レトロを象徴する旧門司税関と国際友好記念図書館。そして関門連絡船・・。

門司。読んで字のごとく「門を司どる」という意味なのか。それは外国という“近代化”と明治・大正の日本という“前近代化”とを分ける場所であり、かつ、つなぐ場所でもあったのだろう。

目を閉じて、時折ヘッドホンに飛び込んでくる汽笛やはしけの通過音を聞いていると、この街が隆盛を極めたあの頃・・中国大陸の大連、天津、青島、上海、広東などから定期船が、そして世界の様々な港からは貨客船が往来した風景が瞼の裏に蘇る。

関門海峡の早い潮の流れをたたえた波の音、目前に見える下関との連絡船の汽笛、潮風をかき分け聞こえてくるディーゼルエンジンの音、音、音・・。そんな「なにか」懐かしくも切ない万感をステレオマイクを使って一つ一つ採取していく。

どのポイントでどんな音が録れるのだろうか。期待に胸をふくらませながら、さらにヘッドホンに意識を集中させていく。そして、マイクのブームをできるだけゆっくりと、大切な「なにか」を聞き逃さないように・・桟橋から堤防の先へと動かしていく。

「ビュッ」「ビュッ」・・時折、何か風を切り裂く音が聞こえる。「ビュッ」「ビュッ」・・意識をヘッドホンから視界の先へと向かわせた。なるほど、釣り人達の釣り竿の「ビュッ」という音だ。思わず口元がゆるむ。

しかし、音を採取するのは難しい。極力定点録音を心がけてはいるものの、「グビグビっ」と言うブームを持ち替えた時になってしまう音が入ってしまったり、マイクの向きがころころ変わってしまったりしてしまう。さらに港の近くで工事をやっているために、無駄なノイズまで拾ってしまう。ここで何テイクか録ったあと、録音ポイントを求めて歩くことにする。

関門橋

少し歩いたところに関門橋を一望できる公園があった。つれづれなるままにマイクを構えると、「ゴー」という唸りがヘッドホンに飛び込む。関門海峡の潮風が橋にぶつかっているのだ。吊り橋の構造は直接風を受けない仕組みになっているというのはこういうことなのか。一人感心しながらマイクの向きを陸地へと移動させた。すると、左手の方から子どもたちの声が聞こえてくる。近くの小学生たちが親子でキックベースボール大会をやっていた。早速、テープを回すことにする。少し離れたところで録ったが、子供たちの歓声や審判の声がマイクにしっかり飛び込んでくる。心配していた近くの車道のノイズはさほど気にならなかった。

カフェ前にて
次に国道から少し奥に入った場所で、静かなたたずまいの住宅街に遭遇した。うるさくもなく、静かすぎずといった場所だったので50m前から歩いてくる老婆の会話、靴音、そして息づかいがマイクを通してひしひしと伝わってくる。

港に戻り、同期の塚田と合流するべく待ち合わせ場所を設定し、塚田が来るまで船だまりで打ち寄せる波を加藤さんと1テイクづつ録り、のちに録音ポイントによって録れる音が違うことに気づく。

程なくして、同期の塚田や武田さん達が合流してきた。彼等は尾道に遊びに行った帰りだった。途中、我々がここにいることを察知し、合流してくれたのだ。尾道からの土産話を肴に駅前のカフェでひとときをすごした。レトロ感覚の町並みにフィットした真新しいカフェでクロワッサンと熱いコーヒーを胃に流し込む。話題が再び門司になったときに聞いた話だ。

船ディテール
昔、門司の港には台湾から大量のバナナが荷揚げされていた。輸送中に蒸れたバナナを路上で独特の口上で売りさばいていたのが「バナナの叩き売り」の始まりだという。最近でこそ全く見られなくなったものの、そんなことがあったのか・・と一頻り感心していた。

門のまち、門司港。この街の賑わいも、昭和33年の関門国道トンネルの開通によって次第に様変わりをみせはじめる。相次ぐ炭坑の閉山によって北九州工業地帯は衰退し、新たな生き場所を求めて人々は移動を開始する。追い打ちをかけるように昭和48年の関門橋、昭和50年の新幹線関門トンネルの完成で、交通の要地としての役目も失われた。

巨大船通過
カフェを出た私は、駅前で老人の夫婦に記念撮影を撮ってくれとせがまれた。快く応じた私はファインダー越しにシャッターをきる。「パシャ」・・もう一枚・・「パシャ」。遙かノスタルジーな画像のむこうに私たちが失った「なにか」がある気がした。私は、その「なにか」に呼び寄せられるように門司港駅の改札口のところへと足を運んだ。

正面に機関車の動輪を型どった台座があり、黒みかげ石に金文字で「0哩」と刻まれている。0哩標とは九州鉄道の起点を意味する。だが、改札口の向こうには、その使命を全うしたモノだけが集う終着駅のような哀愁が佇んでいた・・。


門司港駅